遠いあの日の出来事 |
忘れもしません。遠い昔のあの日を。日本の三大火祭の夏越祭を目前に控えたあの日、我家の電話がけたたましく鳴った。当時は今と違いまだ固定の黒電話でした。いつもの様に友達からかな?位に何気なく取った受話器の向こうから・・・・・ 彼女は救急病院の集中治療室にいました。私の娘です。
友達の運転する車の助手席に同乗していて、事故にあったのです。病名は脳挫傷、結果的に左半身麻痺、構音障害、左動腰神経麻痺という後遺症が残りました。
その日を境に本人は勿論私達家族も長い長い苦難の道に放り出されました。身体に沢山の管がまとわりついている他は外傷はほとんどなく只静かに眠っているだけの娘を見て私は主治医に「先生、いつ頃目を覚まし、いつ頃起きれますか?」と。脳挫傷という怖さを知らなかったのです。主治医は私をにらみつけ乍「ナイロン袋に豆腐を入れて2階から落とした様な脳の状態です。こわれた豆腐が元にもどりますか?手術も出来ません、見守るだけです。万一峠を越しても植物状態です。」との言葉で私達は初めて事の重大さを知り身体の震えを覚えました。結局一日又一日と難局を乗り切るものの一ヶ月近くも意識が戻らず、ようやく目を覚ました時は自分でも思っても見なかった様な身体障害者1級保持者と成っていたのです。
半身が麻痺、左目も、左手も、左足も、そして背骨も、加えて言語障害。それ以後「死にたい。」が、彼女から出る唯一の言葉でした。
この様な姿に母親である私も娘の将来を思う時、何一つ希望も夢もなく、何度一緒に死のうと思ったか知りません。夜布団に入るたび今日も死ねなかった・・・と思う時、良かったと云う心と明日こそと云う思いで幾夜枕を濡らした事か。それでも虚しい日を重ねていく内に娘を親も次第に落ち着きを取り戻しました。
然し先生がして下さるリハビリも本人は夢も希望を捨てているのですから笑いもなければ積極性も勿論なし、只毎日を消化するのみ。されるがままという状態でした。親子して泣き乍自分の人生、消える事のなかった命だから大切にして精一杯努力しようと、そして生き抜こうと話し合いました。主人とも親として心残りの無い様に子供の将来の為自分達の出来得るだけの事はしようとと誓いました。
それからというものリハビリ病院は勿論、温泉療養、鍼灸院、マッサージ、挙げ句の果ては中国に良い治療が有ると聞けば飛んで行く始末。然しリハビリにも限界が有りました。月日は無残にも早く去り十年一昔といいますがその一昔も当に過ぎ、あらゆるリハビリも時が経ち過ぎ効果が頭打ちに成っていたのです。
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時間湯との出会い 〜第一の転機〜 |
そんな中、或TV局の画面に井田湯長さんが出演されているのに偶然出会いました。今思えば何かお導きがあったとしか思えません。TVの中で話を聞いていて「ここだっ!!」そう直感しました。矢も盾もたまらず電話で湯長さんに面会を申し込みました。急き込んで一方的に娘の事故からその当時の事を話すと湯長さんは「私も同じ身の上ですよ。」と暖かい言葉を下さり、ここ群馬県の草津温泉時間湯に大切なご縁をいただきました。娘の時間湯での湯治生活が始まったのです。
湯長さんより御指導と諸々の御注意をいただき乍一日4回3分の入湯の毎日。少しでも良くなればと必死で一生懸命でした。驚いたことに一ヶ月足らずして娘から出た言葉、「今日から杖はいらない。」 これまでの長い年月、杖を持ってもまともには歩けず必ず同行者が必要だった状態でしたのに今の言葉に私は自分の耳を疑いました。杖なしで決してきれいな歩行ではありませんが一人歩きしている姿に又々自分の目を疑いこれが偽りでなく事実だと思うまでに少しの時がかかりました。次第私の涙の向こうに彼女の姿が小さくなる様でようやく主人に電話をと・・・主人曰く「俺を騙すなんて・・・」と最初は信じてもらえませんでした。二人して手を取り合う事は九州と草津に別れているので出来ませんでしたが、本当に喜び合いました。本人の嬉しさもひとしおだった様です。
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同居生活と草津の冬 〜第二の転機〜 |
驚きと嬉しさの日々の中、あと二ヶ月で正月と云う時に湯長さんより思っても見なかった言葉をいただきました。娘を或る女性入湯先輩者の方とアパートで同居生活をさせたいとの事でした。これまで親子で離れた生活は少々あったのですが、アパート生活とは何と云う発想だろうかと私としては「えぇっ〜」と云う思いでしたが、同居して下さる方への一方ならぬ迷惑をおかけする事を承知でお願いしました。娘が草津に来てから2回目の転機が来たのです。
11月〜明けて3月までの同居生活、食事の支度はその方がお世話下さいましたが、なにせ彼女は初めての経験の事、想像以上に色々有りました。事故以来子供本位で生活してましたのでかなり我儘で依怙地で体が思う様に動かなかった為か、相手の方にかなり手を煩わせたと聞いています。さぞや心まで傷付けたであろう事に親としては只々頭を下げ感謝するしか有りません。湯長さんの言葉の中に「湯治者同士の同居生活はお互いに争い競い合う事もあるだろうけども必ず相乗効果が有りますよ。」との事に甘えて五ヶ月が過ぎました。群馬の空っ風の中、この草津の大雪と大寒を周りの方の手を借り乍、とにかく冬を乗り切ったのです。
久しぶりに娘に再会した時の事、鮮明に覚えています。少し精神的に成長した様だし、言語も人様でも解るようにだいぶん明瞭になったと思うし、何より猫背がかなり良く成り両手も頭上にあがる様に成っていたのです。今更乍この草津の湯の効果、湯長さんをはじめ周りで助けて下さった方に心から感謝の念で一杯でした。ここまでどれ程の大変な道のりだっただろうかと思いをめぐらせど、私達は九州にいて娘と接していなかったのですから心底有り難く思いました。
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そして現在・・・まだまだこれから |
今現在湯長さんの飴と鞭を頂き乍、笑顔がもどり一日4回の入湯生活をしています。以前と違い今は一人住いです。勿論沢山の人の助けをいただきながらですが・・・只入湯するのではなく彼女のその時々の身体の状況を見て工夫して下さいます。まだまだ可能性が有ると云って頂き今日も湯の恩恵を受けています。
私の娘は交通事故に遭い半身麻痺に成った事は不幸かも知れませんが、今この時皆さんに支えて頂いている様を思えばこの上ない幸せ者だと思います。いつの日か娘が自分の生涯を終える時「若い頃事故に遭い大変だったけど、我が人生も満更ではなかったなあ・・・」と思って終章してほしい。そんな思いが出来る様に残りの人生を送ってほしいと願っています。
最後に娘と同じ境遇にいるであろう沢山の人達がこの草津の時間湯を知らずして過ごしているのは真に勿体なく、何らかの方法でお知らせする事は出来ぬであろうかと思い、又今ご存知でも二の足を踏んでいる方々にも一日も早く躊躇する事なく当地にて湯治されます事を願います。入湯仲間がお待ちしています。そしてお互いにいつの日か心の底から笑える人生でありたいと思っています。
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